2026/02/17 18:11


さて、第一回の記事のタイトルからして、謎解きになってしまいましたけれど、〇〇〇〇の中身は「しょぼい」でした。
 
皆さんは、もちろん私小説という言葉は聞いたこと、見たことはあると思います。
 
では、それにたいしてどのようなイメージをもたれていますか。
 
「私」という一人称の視点から描かれ、日常の身辺雑事から題材を得たほぼ事実にもとづく生活の報告。自伝的小説。
 
あるいは社会を俯瞰する視野をもって書かれる社会批評的な側面の弱い、わが国独特の作風。自分の生活や家族や交友の狭い範囲を出て社会と向き合い、社会問題と対峙することのほとんどない、関心領域の狭い限局された作品群…‥‥等々。
 
そうした一般の評価やまとわされてきたイメージがわざわいしてかこれまでどちらかというとマイナスの、あるいは消極的でネガティブなイメージで捉えられてきたのではないかと思います。
 
かくいうわたしも実作者として自分が書く小説には、私小説的な傾向に陥ることはできるだけ避けたい、というような神経の使い方を少なからずしてきたかなと、過去の作品を振り返ったときに呼び出されてくる工夫の努力や苦心など、諸々の心の軌跡を想い起してみて感ずるところがあります。
 
そしてそこに一種の気恥ずかしさが潜んでいることにも気づかされます。でも、本当にそれは恥ずべきことなのか。断罪されなくてはいけない性質のものなのか。
 
最近、この点に関して、大きな疑いが、巨大な鳥の影が頭上に覆いかぶさるかのようにして襲い、しばらくそのまま滞空している感じなのです。
 
しかし、この感じは全然悪くはなくて、むしろ喜びと希望に近いものがあります。
 
というのは、これまで人生の長きにわたり自然の性向にさからって抑えこんできたものが解放してよいのだとわかって、春の雪解水のように流れだし、屏風のようにたちはだかる山々を縫って平野部まで貫流し、あまねく環流する予感がしてきたからです。
 
思えば昨年十二月にふと伊藤整の『近代日本人の発想の諸形式』を読みたくなって久しぶりに手に取ったのがきっかけとなりました。
高校の恩師から推奨されて以来、持っていたこの本がまさか運命の書となろうとは。
 
 
話を私小説にもどしますが、そもそも日本に今のような小説のスタイルが現れ出したのが、明治期です。文学史上、「日本近代小説」に分類されるジャンルの一派であるわけですが、まず大きな枠組みのほうから、ロングショットで明治・大正・昭和の文学を鳥瞰することからはじめて私小説をクローズアップするほうが、その本質に迫るアプローチとしては、ベターなのではないか。
 
日本近代文学の揺籃期ともいうべき時代は、文学にたずさわる文学者だとか、詩人だとか、小説家のような人々の社会的地位は、現代の私たちには想像がつきにくいかもしれませんが、けっして高くはありませんでした。いやむしろ社会の片隅に追いやられ、政府の圧迫を受け、無用の業と位置づけられていました。
 
当時は殖産興業に富国強兵の世の中ですからね。明治維新以来、西洋文明が流れこんできて、社会に実利性を重んずる風潮が世に広まり、そこにまた立身出世主義の価値観が育ってきたこともあったでしょう。
国家官僚とか政治家とか経営者とか役人とか勤め人に比べて文学者や小説家が落伍者のように見なされたとしても不思議ではありません。
 
 
それにしても気になるのは、そうした時代背景に生きた当の本人たちは我が身の置かれた境遇や運命というものをどのように受けとめていたのか、ということです。
 
一例を挙げると、永井荷風というフランス帰りの文学者がいますね。花柳界の雰囲気を好み、とくに震災以降、江戸文化の名残の失われてゆく東京市中をぶらぶらと散歩して散策記『日和下駄』なども書いています。(そういえば自らきりぎりす散人と称してほとんど本能的に歩き回ってきたWalkerの友人が荷風の名前を出していた記憶があるので、もしかしたら彼は荷風に相当のシンパシーを感じているのかもしれません)
 
 
「私は私が属する国家対芸術の関係を今更に憤慨もしてゐない。私は父母と争ひ教師に反抗し、猶且つ国家が要求せずして、寧ろ暴圧せんとする詩人たるべく自ら望んで今日に至つたのである。其れだけの覚悟なしに居られようか。……詩人は実に、国家が法則の鎌のもつて、刈り尽そうとしても刈り尽し得ず、雨と共に延び生ずる悪草である。毒草である。雑草である。……博徒にも劣る非国民、無頼の放浪者、これが永久われわれの甘受すべき名誉の称号である。」
 
なんて、かなり自虐趣味が入っているんだろうか、との印象はありますが。でも、当時の状況と小説家の心境に関して伝わってくるものがあります。もちろんどの小説家も同じとは申しませんが。
 
伊藤整はこう書いています。「永井荷風は、よい家庭に育ったが、ヨーロッパの文学や思想を学んで帰ってから、日本の社会の封建的な古い社会秩序や家庭秩序に失望した」と。(『近代日本の発想の諸形式』調和的発想の推移より)
 
知りませんでしたが、この人の父親久一郎という人は文部大臣の秘書官をつとめた後、日本郵船横浜支店長にもなっていて、西園寺公望公との交わりもあったということですから、自分の職業をこれだけこき下ろしながら、それでも並みならぬ誇りをもっているのもうなずけます。
 
中村光夫という著名な文芸評論家は、「明治文学はその出発の最初から同時代の社会生活にたいする批判者の立場に立っていた」と認めながら、これは「文学者が社会から、まともに相手にされなかったことを意味します」とも指摘しています。
 
そして、私小説の元祖ともいえる葛西善蔵の名をあげ、「みずから好んでアウト・ロウの立場に身をおいた」点で他の文学者の人たちとの共通性があるとし、「新たな使命感に燃えた文学者たちが、誇りをもって貧窮と社会の無視にたえたところに、明治文学のひとつの特色があったので、このことが明治の小説に、他の国他の時代にあまり類例を見ない純潔さをあたえている反面、これを時代精神の表現と見るとき、偏狭で一面的なものとしているのは争われない」と述べています。
 
つまり、日本に特有の小説形式として、私小説が生まれた経緯と必然を、それが生まれなくてはならなかった背景的事実のほうからよく理解することができれば、「欠陥」ばかりに注目し、ヨーロッパの小説と比較して「こうあるべき」なのに、と批判し、低い評価をあたえなくてもよくなります。
 
伊藤整という人は、その意味では、創造的な仕事をしたと思いました。
 
それは、従来の自然主義とか、耽美派とか、白樺派とか、芸術至上主義とか、主知派と生活派といった分類によらず、日本人の「発想法」に着目して、まず「調和型」を取り上げてから、「逃避型」と「破滅型」に行き、「死または無による認識」でエゴイズムの滅却をめざした自己放棄にふれてから、「上昇型」と「下降型」という具合に展開してゆきます。
 
その根底には、「一体よい文学作品とは何か?」という問いを立て、「よき意図によって行われるよき生活をして、それの報告を作品として書くこと」ではないかという答えを直観的に受け取ったことがあります。よき意図とは、誠実であろうとする、真実に生きようとすることだと理解できます。
 
そこで思うにまかせぬ現実と出くわすことの多い社会の秩序に従って、ある程度調和しながら家庭も大事にし、内面の精神生活も自己の信念に反することなく生きてゆこうとするところに、調和的発想が必要になってくるということは、私たち現代人にも理解はできます。
 
ところが、それにも限界があって、難しくなってくる場合があります。
 
そうすると、調和的発想にはなれずに逃避や破滅に向かうけれど、森鴎外も夏目漱石もそれぞれ陸軍軍医総監、東京帝大の講師や朝日新聞の連載小説を発表する著名作家になるなど恵まれた地位にありましたから、逃避型にも破滅型にもならなかった。伊藤整はそのかわりに後世における誉も高き文豪が遺した文学作品が素材を歴史に求めざるをえずに史伝であったり(鴎外)、ディレッタント(学芸愛好家)の域を出ずに傍観者的な立場からの作品しか書かなかった(漱石。『明暗』を除き)ことを指摘しています。そして育ちのよさや金銭や食い物に困ったことのない身分など、作家ごとに異なる条件が発想形式に大いに影響してくるのだということを、『近代日本人の発想の諸形式』という本は、具体的な事例を示しつつ説得的に書いてくれています。