2026/02/17 17:53


これからこの店主ブログでは、明治・大正・昭和の時代を生きた文学者が当時置かれた社会環境の中で、どのようにして「内的な自由の世界を打ち立ててゆこうとしたのか」を見てゆこうと思います。
 
これは私の個人的経験ですが、日本の近代小説といわれる作品を知ってゆくと、「―こんなにすごい作品があったのか!」といった驚きや発見の喜びがあります。
 
学校で教える歴史は、いつどこで出来事が発生したか。原因は何か。どんな影響をおよぼしたか。ある出来事と別の出来事の関係はどうなっているかなど、どちらかというと捉え方が外面的です。個人を超えた視点から客観的に捉えてゆこうとします。
 
一方、文学を読み味わうということは、個人の内面に入りこみ、内側から人間を取り巻く環境や世間を観察することでもあります。
 
このとき作品は、思考や感情など心の動きをつうじて映しだされてくる「時代の鏡」たりえます。
 
ということは、明治・大正・昭和を生きた人々の中でも、より感じやすく思索を好み表現力豊かな文学者、小説家と呼ばれるような人たちが遺してくれた作品は、鑑賞の対象であると同時に歴史に学ぶといった場合でも、一級の資料たりえることをも意味します。
 
彼らが外側の秩序の制約の下、どんな精神的な内面生活をいとなもうとしたか。
 
それを性向の違いだけでなく、それぞれ異なる出自、身分、地位などによって色んなタイプの「発想の形式」から見ようとしたのは、伊藤整という小説家・文藝評論家でした。
 
この社会も家庭も個人も究極的には、人間の「想念」が動かしているといっても過言ではありません。
その意味では、近代から現代までの時代を生きてきた日本人のそれぞれ発想とそこから生まれた文学表現に今を生きる私たちが自己の内面にそれらと近いものを見出すことも可能なはずです。
 
書くのが好きな人も読むのが好きな人も、自分らしい表現を模索し、よりよい現実世界を創造してゆこうとするとき、その糧とできる豊かな文学世界を見つけられるイメージをいだきながら連載してゆきたく思います。